【人生会議】をして、終末期の意思表示を!

夫のマシュウです。

確か、先月11月末でしたか、一つの「ポスター」が物議をかもしました。

厚生労働省が、人生の終末期にどのような医療やケアを受けたいか、

事前に家族や医師と話し合っておくよう啓発する「人生会議」のポスターでした。

物議のもと?

吉本芸人の小籔さんが、病室のベッドに酸素吸入を受けて横たわる姿で、

心の声を発している姿が目に飛び込んできます。

苦しそうな表情の心の声は「俺の人生ここで終わり?大事なこと何も伝えてなかったわ・・・(中略)こうなる前に、みんな「人生会議」しとこ」(同ポスターから一部引用)

と発しているんです。

このポスターが患者団体などからの批判で掲出を中止したということでした。

吉本興業に発注したというのがどういう意図だったか?

吉本興業だからこういうノリの作りになったのかもしれませんが、

欧米でも同じような趣旨のポスターを作って啓発しているのですが、

そこではお年寄りを含めた家族がにこやかに話をしているモチーフでした。

確かにこの方が柔らかい感じがします(^^)/

「人生会議」って?

この騒動で、我が家でも「人生会議」なる言葉を初めて耳にしたところです。

患者への配慮という問題はありますが、啓発ということでは一気に認知された感があります。

考え方としては、本人が元気なうちから終末期について想定しておくこと、

それを家族や医療関係者とも共有しておくということでしょうか。

それによって、いざという時にも冷静に対処できるのでしょう。

両親のケース

私たち夫婦も、老親に、どのように最期を迎えてもらうか悩んでいたことがあります。

双方の両親ともに古い時代の人間で、最期をどう迎えるかについて話をすることはありませんでした。

特に私の両親は、母親が父親にそういう話を始めると、父親は「俺に死ねというのか!」と

言って取り付くしまもないんだ・・・ということを母親から聞かされてきました。

両親は元気な頃から、二人で「地元の特別養護老人ホーム(特養)に入るんだ!」と

言っていたのを思い出します。

妻アンが「特養なんて、元気な人はそんな簡単に入れないんだよ」と言ってたのに、

二人そろって思いもよらず「要介護5」になって、すんなり入所(^^)/

両親は、自分たちの願いが叶い、思い通りの人生設計になったかもしれません。

その時、特養の看護師から「看取り」「延命治療」について聞かれました。

両親の終末期に関しては、過去の母親との会話をもとに私が勝手に決めてしまいました。

母親から「私がもう生きられない時は、余計なチューブなどつながないで欲しい」と言われていたからです。

したがって、胃ろうなどの選択肢は考えていませんでした。

特養の看護師には看取りのお願いをするとして、延命治療はしないことを希望!

しかし、父親からは「終末期の医療についての希望」を確認していませんでした💦

父親がまさに回復の見込みのない中、この期に及んで意識もはっきりしない容態。

最期はどうしてほしいのか?今となっては聞くすべもありません💦

父親は何も言わなかったけれど、いつも母親の言うことを聞いてきたのですから、

反対するはずがありません。

私たち親子は結果として「人生会議」をしていたことになるのでしょうか?

その母親からは、死後についての希望を聞いていました。

ただひとつ「葬儀は神道で」だけです。

これだけは叶えてやりたいと、事前準備をしているところです。

叔母のケース

ところで、妻の叔母が道南の田舎町で一人暮らししています。

やはり高齢ですので、数年前に健康を害したことを期に「終活」にいそしんでいるようです。

病気で入院した場合どう対処してほしいのか、

さらに、

家の事やらお墓の事やら、自分にもしものことがあった場合に備えているようです。

妻は電話でいつも安否確認をしています。

これも「人生会議」なのでしょう。

そして私たちも

親の世話をしながら、我が身にいずれは訪れるであろう時のことを話しています。

基本的には「無駄な延命治療はしてほしくない」ということに尽きます。

他人事ではなくて、自分たちの「人生会議」を詰めなくてはならないと

肝に銘じたところです。

物議をかもしたポスターの批判だけでなく、これを奇貨として、

自分の希望する終末を誰かに伝えるきっかけにしたいものだと思います(^^)/

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする