おはようございます。妻のアンです(*^-^*)
今年も庭のムクゲが咲き始めました。
ピンク色の可憐な花は夏到来のお知らせです。
さて、先日、父親の1周忌を無事に迎えることが出来ました。
そろそろ故郷の土に還してあげなくてはと思うのですが、なかなか踏ん切りがつきません。
「離れがたい」というのが本音でしょうか。
幸いなことに、夫も、父親のたったひとりの妹(叔母)も、
「気の済むまで手元に置いていいんだよ」と言ってくれていますので、
その言葉にすっかり甘えています。
これから最後の別れとなる「納骨」の前に、
私自身の事を振り返り「気持ちの整理」をすることにしました。
昔話になりますが、私の両親は私の幼少時に「離婚」しました。
母親は英語が堪能で、外でバリバリ働く職業婦人。
私を産んだ後も仕事を続けていましたので、
私は近くに住む「父方の祖母」に育てられました。
祖母は、優しくて、強くて、我慢強い、私の最愛の人・・・
離婚して、母親はいなくなってしまったけれど、
「ばあちゃん」がいましたから私は充分幸せでした。
けれど「ばあちゃんが死んだら私はどうなるんだろう?」
そんな「不安」をいつも抱いていた子供でした。
もしかすると、
私が人一倍心配性なのは、この頃の体験からきてるのかもしれませんね(笑)
父親と、ばあちゃん、私・・・三人の穏やかな生活がしばらく続いたある日のこと。
突然、ひとりの女性が目の前に現れました(@_@)
「今度この人がお母さんになる人だよ」と父親から紹介され、茫然自失!
そして、その女性が帰った後、
「お・か・あ・さ・んって呼ぶ練習しようね」と祖母が言いました。
私は、どうしていいやら、大混乱!
いきなり、よその女の人を「おかあさん」なんて呼べるはずありません。
「お母さんがほしい」なんて一度も言ったことないのに、どうして???(涙)
(正直、父親を恨んでしまいました)
その女の人は美しい女性でしたが、直感ですぐに冷たい人だと悟りました。
よく、子供は正直だと言いますがその通りでした。
「おかあさん」と呼ぶ練習をしましたが、最初の「お」が、のどから出てきません。
努力はしたつもりですが、おかあさんと呼べるまでに相当な時間がかかりました。
「継母」が家に来てからは、必然的に祖母と会う機会が減っていき、
遂には、私が継母になつかないのは自分が近くに居るせいだからと言って、
祖母は遠い街に住む次男の家に行くことになりました。
別れの日、
手渡してくれた深みどり色のマフラーを抱きしめて、泣きながら寝ましたっけ。
そうそう、ばあちゃんの匂いは、サロンパスの匂いだったなぁ・・・
母親と生き別れになった「あの日」から60年近く経ちました。
忘れもしない最後のあの日、大人が数名、なにやら話し合い?しているんです。
しばらくして母親が泣きながら?出て行く姿がありました。
私は大声で狂ったように泣き叫びました。
ここまでは思い出すことが出来るのですが、
この日を境に私の記憶から「母親の顏」がプツリと消えてしまいました。
人間って、受け止めきれないような「強烈な体験」をすると
それを忘れよう、忘れようとするらしいですね。
私も「あの日」のことが引き金となって?いまだに母親の顏が浮かんできません。
思い出そうとしても、まったく思い出せないのです。
月日が流れ、私も人並みに結婚して子供にも恵まれました。
平穏な家庭生活を送っていましたが、
平成7年の春、「お前の事はもう何も心配することがなくなったよ」と言い、
安心したような顔をして、祖母は亡くなりました(涙)
振り返ると、今、私がこうして生きているのも、祖母がいてくれたおかげです。
どれだけ「心の支え」であったことでしょうか。
感謝しても、しきれません(涙)
「親の離婚」というのは、子供にとっては人生を揺るがす一大事です。
私もいまだに「影」を引きずっています。
本来、あってはいけないことだと考えますが、
ケースによっては、一概に、離婚イコールNGではないこともあり難しいところですね。
「再婚」する場合も、私のような「連れ子」のいるケースは、
特に「慎重」に考えてほしいと強く思います。
実は父親に「どうしてこんな人と結婚したの?」と
「こっそり」手紙を渡したことがあります。
いつも継母の目が光っていましたから、こっそりなのです(笑)
読んでくれたはずですが、返事はもらえませんでしたね。
父親に問うても、逆に父親を苦しめるだけだと幼心に感じ、
小さな子供の訴えは、これ一度きりでした。
話が前後しますが、祖母が私のもとを離れた直後から、
継母は、なかなか懐かない私に対して、俗にいう「まま母のいじめ」が始まりました(^_^;)
(2)へ続きます
コメント
アンさんも辛い過去を背負って生きて来られたんですね。それでも頼り甲斐のある優しいマシュウさんと出会い、挽回できたんですから、人も羨む幸せな人生だと思いますよ。誰と一緒に人生を共に歩むか?によって、人の運命って大きく変わると思いますから。
1969年頃だったと思いますが、私が小学3年時、2歳上の兄と母と、貧しいながら幸せに暮らしていました。重度のアル中だったのか?はっきりしたことはわかりませんが、当時精神病院に入院していた父が退院し戻って来た翌朝、母が家を出て行きました。母は父と一緒に暮らす積りはなかったようです。追い縋る私を振り払って(これ見よがしに)出て行きました。私が学校に行っている間にでもこっそり出て行ってほしかったものです。何も私に見せつけるかのように出て行かなくても…その後どれ位の期間、私と兄と父の3人で暮らしたのか?8か月位だったのか?後日母に確認しても覚えていないと言われました。
その後母は我々が住むアパートから直線距離にして1kmも離れていない所にアパートを借りて、時々兄と会っていたようです。しかし私と会えば、父に居場所がバレてしまうと懸念して、なかなか私は会えませんでした。その後兄から何か月も遅れてやっと会えるようになりましたが、毎回「口が裂けても父に居場所を教えるな!」とくぎを刺されたものです。いくら小3と雖もそんなバカなことはしないのに、見くびられたものだな…と当時思っていましたが、私がやはり頼りなかったんでしょうね。それ以降、毎週日曜日に兄と一緒に母の所に行って一日過ごし、夕方になると父のいるアパートに戻る…という二重生活が何か月か続きました。
1970年の正月、父が食料品などを買い溜めしていなかったため、食べるものがなく、兄が父と口喧嘩していました。父は兄が隠れて母と会っていることを薄々知っていたようで、「文句があるなら出ていけ!」と兄に言い放ちました。それを見ていて私もランドセルに教科書を詰めて、兄と夜、母の職場(5km離れた場所)を目指して出て行きました。丁度運よく職場から車で送ってもらっていた母に歩いているところを見つけられ、一緒に帰りました。その日以降二度と父と暮らすことはありませんでした。父はその後、夜逃げのような形でアパートを出て行ってしまったようで、後日アパートの管理人から母が呼び出せれ、後処理やらトイレ掃除やら色々な雑事をさせられました。
母のアパートに転がり込んでからの毎日は、父に見つかるんじゃないか?(毎晩父がこの辺を探し回っているんじゃないか?)とビクビクしながら電灯も暗くして息を潜めて暮らしていました。1月から4月の新学期まで、学校に行っていたのか?今となってははっきり覚えていません。1月じゃなく3月頃だったのかも知れません。兎に角4月の新学期から数日遅れて小学4年になったのははっきり覚えています。
小さい頃に散々親に振り回されたトラウマがあるので、自分が大人になって家庭を持ったら、子供を巻き込むことなく幸せに暮らしたいとずっと思っていました。だから子供たちの前で夫婦喧嘩をしたことは多分一度もなかった筈です。子供には私と家内は「仲が良い夫婦」に見えていたかも知れません。
躁介さん、コメントありがとうございます。マシュウです。
躁介さんも幼い頃に大変つらい経験をされたことを知りました。
私も自分を振り返り、両親の仲が良いことが一番ですね(^^)
こんにちは。妻のアンです(*^-^*)
躁介さん、お話を聞かせて下さりありがとうございます。
躁介さんが体験されてきた人生のひとコマ、ひとコマが
目の前に浮かび泣きながら読みました。
子供にとっては両親の仲が良いのは
何よりの「心の安定剤」ですものね。
躁介さんも、私も、親たちから学びましたね(^^)/
夫婦円満!!コレ一番大事~~!(笑)