義父は家族だけの「自由葬」でおくりました

夫のマシュウです。

ついに、義父が逝きました。

私たち夫婦それぞれの両親が、全員、この歳になるまで健在というのは、極めて珍しい、

と言われた「長生き両親4人」の一角がついに崩れたのです。

私の住まいの近所に葬儀場ができた2年前に、そこの互助会に義父も含め会員登録していました。

義父の命が長くは持たないだろうということを察した妻からの指示で、

私が「事前の相談」をした2日後に亡くなったのです。

やはり段取りが大事です。

いざというときに慌てないで済みました。

私の子供が駆けつけてくれるのを待ったり、日付けを考慮して葬儀の日程を組みました。

式全体のことを仕切るのはもちろん、娘である妻です。

私は喪主を務めました。

葬儀のスタイル

事前に「無宗教」でということをお願いしてありますので、大枠のことは決めてあるのですが、今度は詳しい式の「進行の打ち合わせ」があります。

無宗教というのは「自由葬」でもあるということで、どんな送りかたをしてもOKということです。

仏式のような「通夜」「告別式」という呼び方はしません。

「通夜」にあたるのが「偲ぶ会」で、「告別式」にあたるのが「お別れ会」です。

それぞれの会は、義父の好きだった中島みゆきの「時代」をBGMに、

礼拝を「献花」と「焼香」で済ませて短時間で終了です。

身内だけですので、かしこまった挨拶などもありませんでした。

祭壇は、簡素なしつらえをというのが故人の希望でした。

ただ、故人が生前、登山が好きでしたので、

「山の四季」をイメージした花で飾り立てていただきました。

それは、こじんまりとシンプルな中にも、季節ごとにアレンジされた花飾りが

とてもきれいに仕上がって、送る側の気持ちが花屋さんに伝わったものと満足しました。

本当に素敵な祭壇に妻は感激していました。

参列

ごく内輪で頼むということも言われていましたので、他に知らせるのは実家に住む義母と面倒を看ている妻の妹だけです。

他の兄妹親戚の方々も皆さん高齢でもあることから、急いで駆け付ける肉体的精神的な苦労を思うとお知らせすることがためらわれて、全てが終了してからの事後報告とすることに決めていました。

ですから、葬儀社との打ち合わせで、どうするか聞かれるのですが、

新聞のお悔やみ欄にも載せません。葬儀終了のお知らせもしません。と伝えました。

ですがここで、ハプニングがありました。

義父がお世話になっていたグループホームの方が、事前に固くお断りしていたのですが、

式の始まる前に義父を見送りに来てくれました。

ありがたいことです。

式後は

「偲ぶ会」の締めくくりは、家族そろっての「夕食会」です。

久しぶりに一堂に会しました。

こういう時でないと皆が揃わないのは、なんとも仕方のないことかもしれませんが、

お互いの近況を報告したり、健康状態を確認したりの時間が過ぎます。

出棺

前日に続いて同じ段取りで「お別れ会」を済ませ、いよいよ出棺時間です。

棺の中の義父の周りをお花で囲います。

こんなにきれいな花に囲まれるのは亡くなったからこそなのでしょう。

妻を始め、家族が泣きながら花で埋めていきます。

妻は手紙も入れました。

「お父さん、まるで花園の中にいるみたいだね」と泣いています。

最後のお別れ・・・この時のBGMも、中島みゆきの「時代」です。

すっかり、我が家にとって泣ける曲になってしまいました。

いよいよ火葬場に向かいます。

火葬場にて

火葬場に着くと、係員がすべて手順を説明してくれて、コトが自動的?に進み、

お別れの儀式も簡単な告別の後、涙を流す場面もなく、棺は炉の中に入れられました。

私たちは部屋で待つこと1時間半。

係員の案内で、収骨室へ。

指示されるままに、モノになってしまったような白い骨片を拾い上げ骨壺へ。

義父の体は、きれいに壺一杯に収まってしまったのです。

こんなに小さくなっちゃうんだ・・・

私は「オレのときは、入りきらなかったら捨てていいからね」と妻につぶやきながら・・・

一連の行事が終わって

「自由葬」ですから、仏式のような還骨法要、繰り上げ法要という儀式もありません。

火葬場から自宅に直帰です。

これで、一連の行事が終わりました。

義父を看取ってから、遺骨を家に持って帰るまで、長かったような短かったような、

ベルトコンベアーで運ばれるように、一連の儀式を済ませました。

これから、妻に虚脱感や新たな悲しみの時間が訪れるかもしれません。

なにせ、7年にも及ぶ父親の健康を案じた気持ちから解放されたのですから・・・

本当にお疲れ様でした。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする